法然上人御一代記

法然上人

ご誕生

浄土宗をお開きになられた法然上人の御誕生の地は、美作国稲岡荘(現 岡山県久米郡久米南町)というところです。現在は誕生寺という浄土宗のお寺になっています。

 

その地に漆間の時国公という押領使(おうりょうし)がいました。押領使とは今で言えば警察署長のような職です。妻は地方の豪族の出身秦氏様でした。

 

時国公と秦氏様はなかなか子宝に恵まれず、名刹である本山寺という十一面観音に「どうか子どもをお授け下さい」と祈願されました。

 

ある晩のこと、秦氏様がお剃刀を飲む夢を見て懐妊されます。

 

長承2年(1133)4月7日の月の晩、玉のような男の子がお生まれになりました。

 

秦氏様が見たお剃刀を飲む夢というのは、頭を剃ったお坊さんが生まれることを暗示しています。
将来はきっと立派なお坊さんとなり人々を導いてくれるだろうと、父の時国公は大いに喜び、賢く聡明な子に育つようにと知恵を司る仏さまである勢至菩薩の名をとって勢至丸と名付けられました。

 

この勢至丸こそが、後の法然上人です。

幼い勢至丸を襲った悲劇

勢至丸が9歳の頃、最大の悲劇に会ってしまいす。まだ幼い勢至丸の将来を決定づける出来事でした。

 

勢至丸の住む稲岡荘に、荘園領主の代理を勤めていた源内武者定明という武士がいました。

 

定明は、時国公が治安の維持を任され地元一帯を治めていることを快く思っておらず、領地の問題での諍いが絶えず、ことある毎に対立していました。

 

そしてついに、勢至丸が9歳となった春、定明は家来を引き連れ、時国公の屋敷に夜討ちをかけます。
突然の襲撃に時国公も応戦しますが、大きな深手を負ってしまいました。目の前で父が討たれてしまった勢至丸の衝撃は計り知れません。
しかし、父時国公は生きるか死ぬかの瀬戸際で勢至丸を近くに呼び、このような遺言を残します。

 

「いいか勢至丸よ、私はこの傷で死んでいくだろう。そなたは武士の子として、父の仇討ちをしようと思うだろうが、その仇が次の仇を招くことになる。憎しみは尽きることなく争いは続いていくことになってしまう。観音様に祈願し生まれたそなたは仏様の子だ。どうか仇を討とうなどと思わず、僧侶となり、私の菩提を弔い、仏の道へ進んでほしい。」

 

時国公は、仇を討つことを禁じ、勢至丸に僧侶になってくれと願い、力尽きます。

 

武士の子であれば、父の仇を討つことが世の習いとされていた時代にあって、これは思いもよらない遺言といえるでしょう。
後に法然上人が、「父の遺言忘れがたし・・・」と仰っているように、武士として生きることを定められていた幼い勢至丸の生涯を大きく変える遺言となりました。

出家、母との別れ

父を失った勢至丸は父の遺言に従い、母秦氏様の弟であり叔父である僧侶の観覚という僧侶のもとへ預けられます。観覚は、比叡山延暦寺で学んだ経験を持つ僧侶で、菩提寺というお寺の住職をしていました。

 

勢至丸はそこで天台宗の教えなど、仏教の基本的な教えの手ほどきを受けるのですが、一を聞いて十を悟り、聞いたことはすぐに覚えて忘れないという非凡な才能を見せたそうです。

 

観覚は、これほどの才能をこの美作の国に埋もれさせてはもったいない、当時の学問最高峰の場所である比叡山延暦寺で仏教を学ばせたいと考えました。
勢至丸自身も、僧侶を目指すために比叡山へ行きたいと考えていました。

 

勢至丸は、母秦氏様のお許しを得るために告げました。

 

「母上のそばに仕え親孝行せねばならないことは承知しています。しかし私はお父様のご遺言にもありましたように、一日も早く比叡山に登って修行を積み、全ての人が救われる道を見いだしたいのです。どうかお悲しみになりませんように。。。」

 

母の秦氏様にとって、たった一人の子を遠く手放す事の悲しみは想像するに余りあります。
比叡山行きを承諾したものの、悲嘆に暮れる心の内をこうお歌にされました。

 

『かたみとて、はかなき親のとどめてし この別れさえ またいかにせん』

 

亡き夫の忘れ形見のこの子と このような別れになり一体どうしたらよいのでしょうかと深く悲しまれたのです。

 

勢至丸旅立ちの時、誕生寺から少し北の都原という場所で見送る母は、別れを惜しむあまり袖に落ちる涙が
、抱きしめた勢至丸の髪の毛を濡らしてしまうほどであったといいます。

 

その後も母は、毎日都原へ来ては比叡山の方を見て我が子の無事を祈ったそうです。

勢至丸のご修行

13歳となった勢至丸が門をたたいたのは、比叡山の源光という僧侶のところでした。
叔父の観覚からの「この子には才能があるから宜しく頼む。」という手紙とともに弟子入りをしました。

 

源光のもとで、勢至丸は天台宗の僧侶となるための仏教の基本を学んでいきます。
勢至丸は、ここでも才能を発揮して天台宗の教えを次々と覚えてしまいます。

 

ここで2年が経ったときに、源光は「優秀なこの子をいつまでも自分の下にとどめるべきではない」と感じ、さらに徳の高い立派な僧呂の元へ行かせようと思いました。

 

次に託されたのは皇円阿闍梨という方でした。
15歳となった勢至丸は、正式に出家得度をすることとなり長い黒髪をそり落としました。

 

そこで勢至丸は、天台宗をマスターするための書物六十巻をすべて読破してしまいます。

 

比叡山では「将来偉い僧侶になるに違いない」という声が高まっていきました。

 

 

一方でその頃、勢至丸と生き別れとなった、母秦氏様は37歳でこの世をお去りになっていました。
しかし、勢至丸はお母様の死を知ることも無くただただ仏の道を邁進されていくのです。

 

 

そんな中、勢至丸は皇円阿闍梨にこう告げます。

 

「仏となる道を求めるはずの学問が、世間と同じように出世につながるとはなんといういやしさでしょう。私は出世するために学問を修めているのではありません。私は仏の道を求めて修行したいのです。どうかここを出ていく事をお許し下さい。」

 

当時の比叡山は、権力や私利利欲のために学問をしてるような僧侶もいたようです。

 

皇円阿闍梨は、
「おぬしほど学問に精通していれば、やがては天台宗の頂点になれるはずなのだが残念だ。余りにも惜しい・・・」と歎かれたといいます。

 

勢至丸が感じたのは、出世のためだけの仏道修行に対する失望だけではありませんでした。
父の遺言にしたがって、誰もが平等に救われる道を求め修行に打ち込んでいるにも関わらず、父を殺した仇への憎しみは消えることはありません。
そればかりでなく、厳しい修行や学問を積んでも多くの煩悩が出てきて消し去る事ができない、そんな自分自身に絶えられず苦しんでいたのです。

 

名利を捨てて〜黒谷でのご修行〜

18歳となった勢至丸は皇円阿闍梨の下を離れて、山深い西塔の黒谷というところに移ります。
黒谷は、別所と呼ばれているように、谷深くほとんど人が訪れず俗世間的な名誉を捨てて真剣に道を求める修行僧の道場とされていました。

 

この黒谷では叡空上人という方のもとに入りました。
勢至丸は、叡空上人に「私は父の遺言が忘れられず、ここに修行にきました。」と伝えたといいます。

 

すると叡空上人は、
「なるほど、あなたはごく自然に仏の道、法の道を歩むべく生まれてきたようである。」
と言って、その意味で「法然房」、そして僧名を、お師匠様である源光上人の「源」と自身の叡空の「空」をとって「源空」と名乗るように言いました。

 

こうして、勢至丸から、「法然房源空」となり、法然上人と称されることとなります。

 

 

叡空上人と法然上人は、師匠と弟子の関係ながらも常に真剣に仏道に励み、時にはお互いの疑問をぶつけ合い、何度も激論を交わしたといいます。

 

法然上人は、仏教の基本とされる、
・いつも正しい生活、いつも正しい行いを続けること
・常に心を静かに怒り腹立ちなく落ち着かせること
・真実の世界を見抜く賢さ、知恵を持ち続けること
というこの3つの教えが自身には不可能であると深く悩まれるのです。

 

あの知恵第一の法然房と評され、天台宗の一番上の位にまでなれるような法然上人でさえも、「自身はどこまでも、煩悩を断つこともできない愚かな人間だ」と深く悩まれ、自分の存在を深く見つめていくのです。

 

私は仏教が説いているような厳しい教え、修行をおさめられるような器ではない。我が身に適した修行が他に無いのだろうか。。。苦悩の中、道を求めていくのです。

 

 

天台宗の源信僧都という方が書かれた「往生要集」という書物があります。
この往生要集の中には、死後、極楽浄土へ往く事を勧めており、極楽浄土へいくための方法がお念仏であると説かれていました。

 

天台宗でもお念仏を称えていましたが、それは悟りの境地に達するために心を集中させる厳しい実践のお念仏でした。
しかし往生要集には、厳しい修行に耐えられない者に対し、別の方法としてのお念仏が説いてあったのです。

 

法然上人は、この書物をきっかけにお念仏の教えに一筋の光明を見るのですが、確証となる経文をつかむことができず苦悩の中で修行する日々を過ごされるのです。

 

全ての人が救われる教えを求めて

やがて法然上人24歳となります。
このとき一時、比叡山を離れて、京都嵯峨の清涼寺の釈迦堂へお参りされます。
そこで、自らの救いを求めすがるために七日間釈迦堂へ籠もってご修行をされました。

 

この嵯峨の清涼寺、釈迦堂のお釈迦様は生き仏として広く民衆からも信仰を集めていました。
法然上人はそこである光景を目にします。

 

毎日、老いも若きも、農民や商人、病を煩っている人やその家族、戦乱に巻き込まれ家族を失った人、赤ん坊を抱く母親など、あらゆる人々がこの先どうやって生きていけば良いのか分からずただひたすらにお釈迦様に救いを求めている姿を見ました。
「お釈迦様、どうかお救い下さい。この苦しみからなんとか助けて下さい。」と必死に祈り手を合わせる人々。もちろんお経も称えることもできずただ一心に救いを求めている人々の姿がそこにありました。
人々が必死に祈る姿を見て、この世の現実を痛感したのです。

 

法然上人は、「仏教の教えは僧侶や貴族だけが救われるようなものであるはずがない。こうして今まさにもがき苦しんでいるような人々が救われるものこそが仏教であるはずだ。何とかしてそのような教えを見つけたい。」と考えました

 

法然上人ご自身も、ご両親との別れという辛い経験をされていたからこそ人々の苦しみを感じることができたのです。

 

それまでも全ての人々が平等に救われていく教えを探していたところではありますが、法然上人の真の求道はこの時より始まったといえるでしょう。

 

 

その後、法然上人は比叡山へは戻らず、奈良のお寺や各地の偉い僧侶の所へ教えを求めに行きました。
しかし、誰一人として求める教えを説いてくれる人はいませんでした。
逆に知恵の深い法然上人に感服して、「法然上人の弟子にして下さい」と言われてしまうほどだったそうです。

 

再び比叡山へ戻った法然上人は、苦悩の中でたくさんの経典が並ぶお堂にこもってお経をひもとき続けます。
法然上人は20年近くもの間、求める教えを見つけるべく膨大な経典を読み続けたのです。

 

お釈迦様の説かれた「一切経」というお経を全て読むのに10年はかかると言われていますが、その一切経を法然上人は5回も読まれたといいます。
20年間来る日も来る日もお堂の中にこもってお経を読み続けるというのは想像を絶する日々ですが、何としても全ての人々が救われる教えを見つけ出したいという強い思いがあったのです。

誰もが救われる教え〜お念仏との出会い〜

ついに、求めていた教えに出会う時がやってきました。

 

中国の善導大師が書かれた『観経疏』。
それまでも何度も読んでいた書物でありますが、この時は特に引きつけられた一節がありました。

 

そこにはこう書かれていました。

 

『一心に阿弥陀さまのお名前を称え、動いている時も、休んでいるときも、座っている時も、横に伏しているときも、時間の長い短いを問わず、南無阿弥陀仏のお念仏を称える者は必ず極楽浄土に往生することができる。なぜならば、阿弥陀さまの願いにかなっているからである。』

 

法然上人に大きな衝撃が走ります。
才能のある人や、財力のある人、特別な修行をしている人だけが救われるのではなく、そうではない大多数の私たちをこそ救っていただける南無阿弥陀仏のお念仏。
このお念仏の教えこそ、だれでもが救われる教えだと心から確信し、感激と喜びで涙があふれる中でお念仏をお称えされたそうです。

 

法然上人43歳。
承安5年(1175)の春のことでした。

 

この年が浄土宗が開かれた年とされています。

 

法然上人は、浄土宗をお開きになられてから建暦2年(1212)1月25日に80歳で御往生されるまでの間、たくさんのお弟子様と共にお念仏の御教えを各地に広めて下さいました。
まさに法然上人が生涯を捧げ、命をかけて誰もが救われる道を探し求めて下さったからこそ今ここにお念仏の御教えが伝わっているのです。

 

今だからこそのお念仏

まもなく浄土宗が開かれて850年を迎えます。

 

法然上人の時代と現在、私たちの存在は変わった言えるでしょうか。
世の中は混沌としていて、人々の悩み、苦しみは消えることはありません。

 

私たちの存在は、どれだけ時代が移り変わろうとも、変化することがないのです。

 

お念仏の教えも今に生きているのです。
この私たちも、お念仏をお称えすれば極楽浄土へ往生させていただくことができるのです。
南無阿弥陀仏のお念仏をお称えすることこそが、法然上人への報恩です。

 

どうぞ、お念仏の生活をお送りください。
同称十念


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