始めには我が身のほどを信じ、後には仏の願を信ずるなり。

如来大慈悲哀愍護念 同称十念

 

無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇
我今見聞得受持 願解如来真実義

 

 

謹み敬って拝読し奉る

元祖大師法然上人 御法語にのたまわく

 

始めには我が身のほどを信じ
後には仏の願を信ずるなり

 

十念

 

 

皆様こんにちは。
この度は当山へお参り頂きまして大変有り難い事でございます。

 

私は当山来迎寺の住職を勤めさせていただいております笠島崇信と申します。
しばらくの間ではございますがお念仏のみ教えについてお取り次ぎをさせて頂きます。
どうぞお楽な姿勢にてお聞きいただけましたら幸いでございます。

 

1月も後半でございますけれども、私正月からインフルエンザになりまして、大変でごさいました。
どこでだれにうつされたかは分かっているんですけれども、誰とは申せないんですけれども、、、

 

昨年末の食事の席に完全に風邪を引いてる感じの人が来ていまして、しかも私の隣に座っちゃったんです。
話の中で、その方の家族が4人インフルエンザになっているとのことでした(笑)
食事しながらとなりでゲホゲホやってますから、困っていたんですけど、見事にもらってしまいましたね。。。
風邪とかインフルエンザの疑いのある時は、まずは二次被害を巻き起こさないというのが、最初のマナーであるなと再認識したお正月でございました。

 

まだ喉の状態は完全ではありませんけれども、しっかりとお念仏のみ教えをお取次ぎさせていただきたいと思います。

 

 

冒頭に拝読いたしました法然上人のお言葉に「我が身のほどを信じ」という言葉がございました。
もう一度拝読をさせて頂きます。
始めには我が身のほどを信じ
後には仏の願を信ずるなり

 

ここのお言葉「我が身のほどを信じ」ということでございます。

 

一般的に「身のほど」と言いますと、身の程を省みるとか、身のほどを知るとかというように使われていますけれども、法然上人のおっしゃている意味は、自分自身の言動を反省するとかですね、そのようなレベルの話ではないのでございます。

 

「我が身のほど」というのは、「自らのうつわ」をずーっと深く深く掘り下げまして、「生まれながらに持ってしまっている根源的なおろかさ」でございます。

 

欲や煩悩を断ち切ることができず、怒りや腹立ち(インフルエンザうつされて腹が立つなんてのもそうですね)
に振り回され、苦しみの世界に生まれては死に、生まれては死にを繰り返さなければならない存在であって、もはや自分の力ではさとりにいたることのできないおろかな私たちでございます。

 

この私たちを「凡夫(ぼんぶ)」と申すのでございます。

 

法然上人の仰っている「我が身のほどを信じ」というのは、この私が凡夫であるということを「はじめに」自覚しなさいというのですね。

 

そして「後には仏の願を信ずるなり」。
仏の願とは、阿弥陀さまの本願でございます。
本願と申しますのは、阿弥陀様が仏となる前、法蔵菩薩様というお名前でご修行されていた時に誓われた願いであります。

 

法蔵菩薩様は、先ほど申しました、欲や煩悩を断ち切れず、苦しみ、さまよい続ける私たちを何とかして救いたいと願われたのです。
そして、計り知れないほどの長く厳しいご修行の結果、願いを成し遂げられ極楽浄土を建立され、阿弥陀様となられたのであります。

 

 

阿弥陀様は、間違いなく極楽浄土におられます。そして、私たちがこの世の命終える時には必ず、阿弥陀様御自らお迎えに来て下さり、怒りや腹立ち、欲や煩悩にまみれもがき続ける、この私も間違いなく極楽浄土に往生させていただけるのであります。

 

始めには我が身のほどを信じ
後には仏の願を信ずるなり
という法然上人のお言葉は、凡夫の私であることを深く自覚した上で、そして、「このような私でも必ず救っていただける阿弥陀様の本願のお力を深く深く信じて、お念仏をお称えすることが大切なんですよ。」という法然上人のお示しなのでございます。

 

 

はじめに我が身のほどを信じるということは、極楽浄土へ参らせていただくために、自分のありようをしっかり見極めるということであります。

 

例えば、大きいテーマパークとかショッピングモールなどでは、いろんなところに地図がありますよね。
これ皆さん見るとき最初に何を見ますか?
まずは自分が今いる場所、現在地を見ますよね。
ここに行きたいなという時に、まずはしっかり今の自分の場所を確認してから目的の場所にいくルートを設定していくと思うんです。

 

同じように、阿弥陀様の極樂浄土へ往生させていただくにあたっては、まずはしっかり自分のありよう、私はそもそもどのような存在なのだろうかということをしっかり見極めておくことが大事なことであります。

 

もし、自分が凡夫であるということをよく自覚しないままに本願を信じようとしても、阿弥陀様の本願を疑ったりしてしまうかもしれません。もしかしたらほかにもっといい修行があるんじゃなかろうかとかですね、これでは疑いの心でお念仏申すことになってしまいます。

 

「我が身のほどを信じる」という確認作業をしっかり行うことで、阿弥陀様のご本願を疑いなく信じてお念仏申すことができるのです。

 

 

このことを、法然上人の求道のご体験を踏まえてより深く受け取らせていただくことにいたしましょう。

 

いくら学問を積もうとも、それまでの戒をたもって智慧をきわめる仏教の教えでは、とてもとてもこの私は救われない。

 

そういう現実の自分というものに気づいてしまった法然上人は、
そんな自分が救われる教えを様々な人に尋ね歩きましたが、自分に相応しい教え、
「この私が間違いなく救われる!」と確信できるような教えを示してくださる方は、誰一人としていませんでした。

 

法然上人は、嘆いて嘆いて嘆きながら、経典が収められている御堂にこもり、悲しみながら、経典に向き合って、一つ一つ自らの手でひもといていくのです。。。

 

 

自分の愚かさを自覚したものの、愚かな自分が救われる肝心の法、信ずべき法が存在しないという状況になってしまったのですね。

 

「我が身のほどを信じ」ただけの状態というのは、どのような心境でありましょうか。
これはとてつもなく大変なことであります。
自分の愚かさだけが見えて救いがない状態なわけですから、この時の法然上人の心の痛みと苦しさは想像することもできないことであります。法然上人のこの救いの見えない状態は20年以上も続いたんです。

 

本当に無我夢中で経典をひもとかれる法然上人のお姿が浮かぶ思いでございます。

 

そして、法然上人43歳のとき、ついに阿弥陀様の本願に出会うことができたのであります。

 

ようやく「仏の願を信ずるなり」であります。

 

自分の愚かさ弱さを、誰よりも強く自覚された法然上人であります。
それまでのあらゆる仏教の教えに救いを見出せなかった法然上人が見出された唯一の救われる道こそ阿弥陀様のご本願でした。
阿弥陀様の「我が名を称えたものを必ず救う」という本願を信じ、「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」と、お念仏申していく道だったのであります。

 

法然上人の伝記には、その場面が非常に感動的に描かれています。
「阿弥陀様は、私のような愚かな者のためにこそ、私でもできる行を定めてくださっていたのだー!」と、
喜びのあまり、そばに誰も聞く人はいなかったのですが、声高らかにお念仏をお称えし、悦びが全身を貫き、流れ落ちる涙がいつまでもとまることがなかったそうであります。

 

 

 

このように、はじめには自らの愚かさを自覚され、長い求道の中で、その自らが救われるたった一つの道、阿弥陀様の本願に出会われ、お念仏申していく道を見出された法然上人であるからこそのお言葉が、
始めには我が身のほどを信じ
後には仏の願を信ずるなり
というお示しなのでございます。

 

法然上人ご自身のご体験の中からにじみ出たこの有難いお示しを、私たちもしっかり受け取らせていただきましょう。

 

そして、このような愚かな私をこそ間違いなく救っていただける阿弥陀様の本願を信じ、極楽往生を願いながら
共に、お念仏の日暮らしを送らせて頂きましょう。

 

 

それでは、皆さま最後に合掌をしていただきまして、十遍のお念仏をご一緒にお称えください。

 

如来大慈悲哀愍護念
同称十念

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