ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細(しさい)候そうらわず。2

如来大慈悲哀愍護念 同称十念

 

無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇
我今見聞得受持 願解如来真実義

 

謹み敬って拝読し奉る
元祖大師法然上人 御遺訓一枚起請文にのたまわく
ただ往生極楽の為には南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思いとりて申す他には別の仔細そうらわず 
十念

 

皆様こんにちは。
本日は、法泉寺施餓鬼法要にお参り頂き有難い事でございます。
どうぞお身体はお楽になさってお聞きください。

 

御法話では最初に自己紹介をすることになっているんですけれども、

 

みなさん、この顔覚えていらっしゃいますか(笑)?

 

 

法泉寺長男の崇信でございます。
こちらにいたころはお盆の棚経にも回らせていただいておりましたので、覚えてくださっている方もいらっしゃるかと思います。

 

今、私は縁あって、千葉県香取市というところにある来迎寺というお寺で住職をさせていただいております。もう11年になるでしょうか。

 

みなさん千葉県というとどのようなイメージがありますか?
「海」
そうですね。「海」のイメージがありますね。
私もはじめは千葉県は海のイメージで香取市のお寺に行ったんですが、何と信州より山奥でした(笑)。

 

千葉県香取市は大変温暖でありまして、冬でも雪はチラつく程度でめったに降りませんし、稀に積もってもせいぜい数センチで昼には溶けてなくなりますので、冬はいいですね。一方で夏は湿度が高く猛暑です。どこに住むにもそれぞれというところでありましょうか。

 

本日は、この実家の法泉寺施餓鬼法要に際し、御恩に報いる思いで、お話をさせていただきたいと思います。

 


本日は施餓鬼会法要でありますので、まずは施餓鬼の由来からお話を進めさせて頂きます。

 

今から2500年前に仏教を説かれたお釈迦様のお弟子さまに阿難(あなん)というお坊さんがいらっしゃいました。

 

その阿難が、瞑想という、じっと目を瞑り精神統一する修行をしておりますと、何やら後ろから気配がしました。
振り返ると、口から火を吐く恐ろしい餓鬼(がき)が現れ
「水をくれ?、食べ物をくれ?、くれなければ、お前の命はあと3日だ。我々と同じ餓鬼道に落ちるぞー。」
とわめきながら脅したのであります。

 

恐れおののいた阿難は、餓鬼の言うとおり水や食べ物を与えようとしますが、目の前で全て火となり燃えてしまうのです。
阿難はすっかり困ってしまい、お釈迦様に助けを求められたんですね。

 

するとお釈迦様は、
「無数の餓鬼たちに、食べ物や飲み物を施して、大勢の僧侶の読経によって供養しなさい。その功徳によって餓鬼は天上に救われ、あなた(阿難)の寿命も伸びるでしょう。」
とお答えになられたのであります。

 

餓鬼に対して称えるお経を陀羅尼(だらに)と申します。
「のうぼうあらたんのう、たらやーやーのうまくありやー・・・」というお経です。
この後の施餓鬼会法要でもお称えいたします。

 

 

阿難は、早速お釈迦様の言われた通り、餓鬼に食べ物や飲み物を施し、大勢の僧侶を招いて供養したところ、餓鬼は天上に救われ阿難の命も助かったといいます。

 

これが施餓鬼会法要の由来でございます。

 

施餓鬼法要は浄土宗以外の宗派でも広く行われている法要です。
浄土宗におきましては、餓鬼に対する供養だけでなく、すでに極楽往生を遂げられ新盆をお迎えになられました方々へのお念仏による追善供養の意味合いもあります。

 

今は亡き大切な方々とのご縁をより深めていただき、そしてご自身もご先祖様がいらっしゃる極楽浄土に往生することを願ってお念仏をお称えする大事な法要でございます。

 

 

先ほど冒頭に拝読いたしましたお言葉でございますが、このお言葉は、浄土宗をお開きになられました法然上人が御往生される二日前にお記しくださいました「一枚起請文(いちまいきしょうもん)」というお書物の一節であります。

 

ではもう一度拝読をさせて頂きます。

 

ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思いとりて申すほかには別の仔細そうらわず

 

この意味をお話ししますと、
「ただ極楽浄土に往生するためには、南無阿弥陀仏と称えて疑うことなくなく往生するのだ、と思い定めてお称えする他には、何も特別な細かい条件はありませんよ。」
という意味でございます。

 

往生とは、「往き生まれる」と書きます。即ち極楽往生とは極楽浄土へ生まれさせて頂く事であります。

 

 

今私たちがいるこの人間の世界は迷い苦しみの世界であります。仏教では六道という六つの苦しみの世界を説いていますが、その中の一つの世界がこの人間界であります。
この世は確かに喜びや楽しみもありますが、私たちの人生をとってみても、病気や死に別れ、事件事故、災害などもあります。喜び以上に苦しみ悲しみの多い世界であります。

 

先ほどの餓鬼の世界も餓鬼道といいまして、六道の中の一つであります。

 

この苦しみの世界である六道の中に、二度と生まれ変わる事がないようにと遙か西の彼方に極楽浄土を建立し、そこにすべての者を救い取ろうと願って下さったのが、私たち浄土宗の仏さま、こちら法泉寺のご本尊でもいらっしゃいます阿弥陀様なのであります。

 

 

その阿弥陀様がまだ仏となられる前に、法蔵菩薩様というお名前でご修行されておりました時に、六道に生まれ続ける苦しみから私たちを救ってくださるために四十八の願いをお建てくださったのであります。この願いを四十八の本願、四十八願と申します。

 

この四十八の願いの中でも、最も大切な第十八番目の願いがございます。

 

それは、「私が修行の末に仏となった暁には、すべての者が私の極楽浄土へ生まれたいと願い、私の名である南無阿弥陀仏のお念仏を称えた全ての人々を必ず極楽浄土へ救い迎えよう。もし一人でも救えない者がいるのであれば、私は決して仏にはなりません。」

 

このように堅く誓われた願いであります。
これを「念仏往生の願」と申します。

 

法蔵菩薩様は、とてつもなく長い間の厳しいご修行の末に、ついに全ての願を成し遂げられ阿弥陀様となられたのであります。

 

法泉寺のご本尊様をご覧ください。

 

こちらの阿弥陀様は立ち姿でいらっしゃいますね。
極楽浄土から私たちのお念仏の声をお聞きになり、いつでもすぐに迎えに行けるようにとお立ちになられているお姿なのであります。
大変尊く有難いお姿の阿弥陀様であります。

 

法然上人は、阿弥陀様の本願のお念仏を疑うことなく、極楽浄土に往生したいと願い、思いを定めて南無阿弥陀仏のお念仏をお称えする以外には特別に細かい条件はないのですよ、とお示し下されたのでありますね。
苦しみの多いこの人間界から、阿弥陀様の極楽浄土に往生させていただくことに目的を定めてお念仏をお称えすることが大事なんですよという有難いお示しでございます。

 

 

今申しました「目的」という言葉でありますが、似たような言葉に「目標」という言葉もありますね。

 

日本語というのはなかなか難しい言葉であります。
同じような言葉でも細かい意味が違っていたりしますね。

 

「目的」と「目標」、普段何となく同じような意味で使っている言葉ですが、この二つには違いがあるそうです。

 

辞書によりますと、どちらも目指すものという意味では同じようですが、「目的」というのは最終的にそこへ到達しようとして目指すものだそうです。
一方の「目標」とは目的を達成するために、常に目の前に掲げるものだそうです。

 

これらのことを浄土宗でいいますと、私たちの目的は「阿弥陀様の極楽浄土に往生する事」であります。

 

では、目標は何でしょうか?

 

 

法然上人のお言葉で申しますならば、それはやはり「南無阿弥陀仏と申す」お念仏生活であります。
阿弥陀様の極楽浄土への往生という目的のために、日々のお念仏の相続を目標として掲げて、お念仏の日暮らしを送ることが大切なことなのであります。

 

 

私が千葉県の来迎寺に入らせていただいてから11年が経ちました。
最初は、千葉県は全く見知らぬ土地でありました。もちろん土地勘もありませんし、周りに知っている方は誰もいません。

 

この時にお寺の総代をされておりました、實さんという方がいらっしゃいました。

 

私がお寺に入るにあたって、お檀家様の家を一軒一軒ご挨拶をして周ったのですが、その時に實さんが案内をしてくださいました。

 

その時に、お昼を食べに連れて行ってくださり、買い物をするスーパーとかも案内してくださいました。
「何か困ったことがあったらいつでも相談してきなさいよ。」と有り難いお言葉をくださいました。

 

その後、お寺の総代を卒業されたのですが、ご法事でご自宅にお伺いしたときに、お念仏のお話しをする機会がありました。

 

實さんはお母さまを亡くされたあとで、また、お一人で生活されていましたので、少し寂しそうなご様子でした。
「年を取ると、何を目標にして生活すればいいのか分からないんだよ」
このように仰っいました。

 

私は、「阿弥陀さまとお母さまをはじめご先祖さまがお見護りくださっています。どうぞ、日々のお念仏をお称えください。」と申し上げたことでございます。

 

その後、お寺の施餓鬼法要やお十夜法要などには欠かさず参加くださり、お念仏をお称えくださいました。

 

ご病気をされてからはお越しになれなくなってしまいましたが、ある時私が風邪をひいて病院におりましたところ、實さんがいらっしゃいました。
實さんはその時入院をされており、歩行のリハビリをされているところでした。

 

私を見つけると、驚いた様子で、

 

「御前(ごぜん)さん!」

 

千葉県香取市の地域では、住職のことを御前さんとか御前さまとか呼ぶんですね。この諏訪のあたりでは、「おっ様」というところでしょうか。

 

實さんが「御前さん!どうしたの?」と私のところへ来られました。

 

ちょっと風邪を引きまして、とお答えしますと、「身体に気を付けるんだよ」と温かいお言葉をかけてくださいました。

 

でも、明らかにご自身の方がご病気をされて、大変な状況にあるはずなのにもかかわらず、ただの風邪引きの私の方を心配してくださったのであります。

 

病院の待合室でしたので、ゆっくりとお話しはできませんでしたが、一言

 

「念仏してるよ。」

 

このようにおっしゃって、リハビリに戻られたのでございます。

 

心残りではございますが、實さんにはこの時にお会いしたのが最後でございました。
實さんはその後まもなく、71歳で阿弥陀様のお迎えをいただきお浄土へと往生されたことであります。

 

今、お浄土から私の姿をご覧になり、
「御前さん! 俺のことをしゃべるんなら、もうちょっと上手く話せるように勉強しなさい。」と叱咤激励くださっていることと思います。

 

實さんは、日々の目標として、病室で小さい声ながらも力強くお念仏をお称えくださったことと思います。そして、この世の命を終えられ、阿弥陀さまのお迎えにより極楽往生の目的を遂げられたのであります。

 

この私たちも、いずれこの世の命を終えた暁には極楽浄土へ参らせていただくこの身でございます。法然上人のお示しのように、極楽浄土へ往生させていただくためには、お念仏しかないのであります。

 

どうぞ、皆様の生活に、極楽往生という目的と、そのためのお念仏生活という目標を据えていただきたいと思います。

 

また、この後の施餓鬼法要では、全ての霊位へ、お念仏のご供養をご一緒に差し上げていただけますようお願いいたします。

 

それでは、これをもちまして本日の施餓鬼法要に際しましての法話とさせていただきます。

 

最期にご一緒にお十念をお称えください。
同称十念

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