ただ弥陀の本願のふねにのりて生死のうみをわたり、極楽のきしにつくべきなり

如来大慈悲哀愍護念    同称十念

 

無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇
我今見聞得受持 願解如来真実義

 

謹み敬って拝読し奉る
元祖大師法然上人 御法語にのたまわく
ただ弥陀の本願のふねにのりて生死のうみをわたり、極楽のきしにつくべきなり
十念

 

 

皆様こんにちは。
本日は当山来迎寺の定例法話会にお参り頂き大変ありがたいことでございます。

 

私は、当山来迎寺の住職を勤めさせていただいております笠島崇信と申します。
しばらくの間ではございますがお念仏のみ教えについてお取り次ぎをさせて頂きます。

 

2月も後半に差し掛かってまいりました。厳しい寒さが続いておりましたが、ここ最近は、春の気配も感じられるようになってきましたね。

 

2月は28日間と日数も少ないこともありまして、あっという間に3月を迎えるのでしょうね。
3月といえば春のお彼岸でございますね。

 

お彼岸とは、このように彼の岸と書きます。
私たち浄土宗では、はるか西の彼方にある極楽浄土のことを彼の岸、彼岸といっているのであります。

 

お中日である春分の日には、お日様が真東から真西に沈みます。このお日様が真西に沈むはるか西の彼方に極楽浄土があるのでございます。
この極楽浄土にいらっしゃるご先祖様に思いをいたしながらお聞きいただけましたら幸いでございます。

 

先ほど冒頭に拝読いたしましたお言葉は、法然上人のお言葉でございます。もう一度拝読をさせて頂きます。

 

ただ弥陀の本願のふねにのりて生死のうみをわたり、極楽のきしにつくべきなり

 

この意味をお話いたします。
ただひとえに阿弥陀様の本願の船に乗って、この迷い苦しみの海を渡って、極楽浄土の岸に参りましょう。
ということですね。

 

ここに「生死の海」という言葉が出てまいりました。生死とはこのように書きます。
生き死にということでありまして、通常はこれをセイシと読みますけれども、仏教ではこれをショウジと読みます。

 

仏教では、この私たちは苦しみの世界に生き死にを繰りかえしていくことを説いております。

 

その一つが、この人間の世、娑婆世界であります。

 

この人間の世での寿命が尽きたならば、また次の迷い苦しみの世界に生まれなければなりません。

 

この人間の世の次に生まれるところはどこなのでしょうか。
動物の世界、地獄の世界など、さまざまな世界が説かれておりますけれども、どれも苦しみの世界であることに変わりはありません。

 

この苦しみの世界に生き死にを繰り返す、生死の世界、生死の海を、渡って行く、つまり抜け出して行くには「本願の船に乗る」というのであります。

 

本願と申しますのは、阿弥陀様が仏となられる前、法蔵菩薩様というお名前でご修行されていた時に誓われた願いであります。

 

本願とはこのようにですね、「もとの願い」と書きます。法蔵菩薩様が仏さまになられる前にお誓いになられた願いのことでございます。

 

では、法蔵菩薩様は何を誓い、願われたのでしょうか。

 

先ほど申しましたように、苦しみの世界にさまよい続ける私たち、この私たちを何とかして救いたいと願われたのです。

 

そして、私たちを救うためにはどうすればよいのかと深く深く悩まれました。
そして想像もつかないような長い時間、お考えをめぐらせた末に、

 

遙か遠く西の彼方に極楽浄土を建立し、自ら仏となり、すべての人を私の国土、極楽浄土へ救い迎えよう。

 

このように誓われ、四十八の願いを建てられたのであります。
これを四十八の本願、四十八願と申します。

 

そして計り知れないほどの長く厳しいご修行の結果、四十八の願いをすべて成しとげられ、極楽浄土を建立され、阿弥陀様となられたのであります。

 

そして、この四十八の本願の中でも、要となる第十八番目の願いがございます。

 

その内容をお話いたします。
「もし私が仏となったならば、わが極楽浄土に往生したいと願い、南無阿弥陀仏とお念仏を称えた全ての者を必ず極楽浄土へ往生させよう。もし一人でも往生できない者がいたならば私は阿弥陀仏とはならない。」

 

このように誓われた願いであります。

 

南無阿弥陀仏の南無というのは「どうかお救い下さい」という意味であります。つまり南無阿弥陀仏とは、阿弥陀様どうか、この私を極楽浄土へお救い下さい、と阿弥陀様をお呼びする意味になります。

 

 

冒頭の法然上人のお言葉は、
阿弥陀様のお誓いの通り、南無阿弥陀仏とお念仏をお称えすれば、阿弥陀様の本願の船に乗せていただくことができ、生死の海を渡って、極楽浄土の岸へと参らせていただくことができるのですよという有難いお示しなのであります。

 

 

法然上人の時代では乗り物といえば船でありますけれども、現代では船以外にもですね、車や電車など乗り物はいろいろありますね。
乗り物は大変便利なものであります。

 

でも、皆さんいかがでしょうか。
車でも電車でも、乗り物には目的地がありますが、疲れてもう歩けないという時に、もし目的地の分からない乗り物が目の前にあったら乗りますか?
目的地が分からないのでは、心配で乗りませんよね。

 

先ほど申しましたように、私たちは、目的地が定まらず生死の海を放浪し、さまよっている存在なのであります。
救われる目的地が定まっていないのは、はなはだ心もとないことであります。

 

阿弥陀様の本願の船の目的地は、しっかりと極楽浄土に定まっているのでございます。

 

本願の船に乗るということは、お念仏を申すということであります。お念仏を申せば必ず極楽浄土という彼岸に参らせていただくことができるのです。

 

 

このことを、法然上人の求道のご体験を踏まえて、より深く受け取らせていただくことにいたしましょう。

 

それまでの仏教による厳しい修行と学問をどれほどきわめたとしても、生死の海から抜け出すことなどかなわない。

 

そういう現実の自分の存在を、しっかりと見抜かれた法然上人でございます。

 

法然上人は、そういう現実の自分が救われる教えを様々な人に尋ね歩きましたが、誰一人として、相応しい教え、「間違いなく救われる!」と確信できるような教えを示してくださる方はいませんでした。

 

法然上人は、嘆いて嘆いて嘆きながら、経典が収められている蔵に一人こもり、悲しみながら、経典に向き合って、一つ一つ自らの手でひもといていかれたのであります。

 

自分が生死の海にさまよっていることを知りながらも、そこから救われる教え、救われる目的地を見出すことはできませんでした。

 

膨大なお経の中には、向こう岸として様々な仏さまの国が説かれておりますが、心から安心できる世界はありません。
それのみではありません。その世界に救われるには、どれもこれも、厳しい修行や学問を説くばかりであります。
向こう岸が見えていても、肝心のそこにたどりつく方法がありません。

 

このまま私は生死の海を、永遠にさまよい続けるのだろうか。
この時の法然上人の心の痛みと苦しさは想像することもできないことであります。法然上人のこの救いの見えない状態は20年以上も続いたんですね。

 

本当に無我夢中で経典をひもとかれる法然上人のお姿が浮かぶ思いでございます。

 

 

 

そして、法然上人43歳のとき、ついに阿弥陀様の「本願の船」に出会われたのであります。

 

阿弥陀様の「我が名を称えたものを必ず救う」という本願を信じ、「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」と、お念仏申していく道だったのであります。

 

法然上人の伝記には、その場面が非常に感動的に描かれています。

 

「阿弥陀様は、生死の海にさまよい続ける私たちを救うために、極楽浄土の岸をご用意くださり、さらには、そこに私たちを届けてくださるために、阿弥陀様おんみずから本願の船を、私たちの目の前に浮かべてくださっていたのだ!」と、
喜びのあまり、そばに誰も聞く人はいなかったのですが、声高らかにお念仏をお称えし、悦びが全身を貫き、流れ落ちる涙がいつまでもとまることがなかったそうであります。

 

 

 

法然上人も、それまでは多くのお経を読み、学問を極められた方ではございますが、阿弥陀様の本願の船に出会われてからは、ただひとえに南無阿弥陀仏のお念仏をお称えする日々を過ごされたそうであります。

 

生死の海から、彼岸、すなわち極楽浄土へ往生するためには、ひとえに阿弥陀様の本願を頼み、お念仏を申すのみなのだということを、法然上人ご自身がお示しくだされているのであります。

 

 

ただ弥陀の本願のふねにのりて生死のうみをわたり、極楽のきしにつくべきなり

 

 

生死の海にさまようこの私たちではありますが、彼岸は極楽浄土と定め、その極楽浄土へ間違いなく参らせていただける阿弥陀様の「本願の船」に私たちもしっかりと乗せていただきましょう。

 

 

それでは、皆さま最後に合掌をしていただきまして、十遍のお念仏をご一緒にお称えください。

 

如来大慈悲哀愍護念
同称十念

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