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来迎寺だより

施餓鬼法話

如来大慈悲哀愍護念 同称十念

無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇
我今見聞得受持 願解如来真実義

謹み敬って拝読し奉る
元祖大師法然上人 御法語にのたまわく

始(はじ)めには我(わ)が身(み)のほどを信(しん)じ
後(のち)には仏(ほとけ)の願(がん)を信(しん)ずるなり

十念


皆様こんにちは。
本日は大施餓鬼(だいせがき)法要にお参り頂き有難い事でございます。

本年の施餓鬼法要ですが、新型コロナウイルスの影響によりまして、ご参加の皆さま人数制限の中で勤めさせていただきます。
本来であれば、新盆ご当家様はじめ、多くの檀信徒皆様にお参りいただいていた施餓鬼法要でございます。
本当に大勢の皆さまにお参りいただいける有難さを、この状況を経験することで改めて実感しているところであります。

一日も早く、皆さまに安心してお参りいただける日が来ることを願うばかりであります。

本日の施餓鬼法要に先立ちまして、これからしばらくのお時間、お念仏の御教えをお取次ぎさせていただきます。

どうぞお身体はお楽になさってお聞きください。
猛暑の中ですので、どうぞ水分など自由にお取りいただきながらお聞きいただけましたら幸いです。


本日は施餓鬼法要でありますので、まずは施餓鬼の由来からお話を進めさせて頂きます。

施餓鬼とは、餓鬼に施すということであります。

餓鬼の姿のイメージは、文字のとおり鬼のイメージで大丈夫です。身体はやつれているけれども、お腹だけぷっくりとふくらんだ小さな鬼をイメージしてみてください。

今から2500年前に仏教を説かれたのがお釈迦様です。
そのお釈迦様のお弟子さまに阿難(あなん)さまというお坊さんがいらっしゃいました。

その阿難さまが、瞑想という、じっと目を瞑って心を静める修行をしていました。

その時に何やら後ろから気配がしました。

阿難さまが振り返ると、口から火を吐く恐ろしい餓鬼が現れ
「水をくれ〜、食べ物をくれ〜、この世界から助けてくれ。そうしてくれないと、お前の命はあと3日だ。我々と同じ餓鬼の世界に落ちるぞー。」
とわめきながら脅したのであります。

恐れおののいた阿難さまは、餓鬼の言うとおり水や食べ物を与えようとしますが、餓鬼が食べようとすると、目の前でボッと火となって燃えてしまい、ぜんぜん食べることができないのです。

阿難さまはすっかり困ってしまい、瞑想修行をやめてすぐさまお釈迦様のもとへ駆けつけ助けを求められました。

するとお釈迦様は、
「たくさんの餓鬼たちに、食べ物や飲み物を施して、大勢の僧侶の読経によって供養しなさい。その功徳によって餓鬼は天上に救われ、あなた(阿難さまですね)の寿命も伸びるでしょう。」
このようにお答えになられたのであります。

餓鬼に対して称えるお経を陀羅尼(だらに)といいます。
「のうまくさらばーたたぎゃたーばろうきていおんさんばらさんばらうん」というお経です。
この後の施餓鬼会法要でもお称えいたしますので、お聞きになってみてください。

阿難さまは、早速お釈迦様の言われた通り、餓鬼に食べ物や飲み物を施し、大勢の僧侶を招いて読経供養したところ、餓鬼は天上に救われ、阿難さまの命も助かったといいます。

これが施餓鬼の由来とされています。

この施餓鬼法要は、浄土宗以外の宗派のお寺でも広く行われている法要です。

私たち浄土宗におきましては、餓鬼に対する供養だけでなく、すでに極楽往生を遂げられたご先祖様や、新盆をお迎えになられた方々へのお念仏による追善供養の意味合いもあります。

追善(ついぜん)というのは、亡き方々のために、私たちが仏道修行によって勤めた良い功徳を差し上げるということです。

このように、浄土宗の施餓鬼法要は、ご先祖様をはじめ、今は亡き大切な方々とのご縁を思い返していただき、ご自身もご先祖様がいらっしゃる極楽浄土に往生することを願ってお念仏をお称えする大切な法要なのであります。

その浄土宗をお開きになられた方が、法然上人であります。

冒頭に拝読いたしましたのは、法然上人のお言葉です。
もう一度拝読をさせて頂きます。

始めには我が身のほどを信じ
後には仏の願を信ずるなり

ここに「我が身のほどを信じ」という言葉がございます。

「我が身のほど」という言葉にどのようなイメージをお感じになるでしょうか。

一般的に「身のほど」と言いますと、身のほどを省みるとか、身のほどをわきまえるとかという言葉からは、自分自身の器量とか言動のようなものを反省するというような意味に使われているかと思います。

しかし、ここで法然上人のおっしゃっている意味は、自分自身の言動を反省するとか、到底そのようなレベルの話ではないのであります。

法然上人のおっしゃる「我が身のほど」というのは、「自らの存在」をずーっと深く深く掘り下げてみることなのです。
そうしますと、私たちが「生まれながらに持ってしまっている根源的なおろかさ」が見えてくるのです。

それは、欲望や煩悩を断ち切ることができず、怒りや腹立ちに振り回され、苦しみの世界に生まれては死に、生まれては死にを繰り返さなければならない存在の私たち。
もはや自分の力では、苦しみの世界を離れてさとりにいたることのできないおろかな私たちの姿であります。

このような私たちを「凡夫(ぼんぶ)」といいます。
力ない頼りない存在ということが字を見ても分かりますね。

私たち凡夫が生まれ続けている苦しみの世界。
仏教では六つの苦しみの世界があると説いています。これを六道(ろくどう)といいます。
六つの世界ということであります。
「六道輪廻(ろくどうりんね)」という言葉、お聞きになったことがあるかと思います。

六つの世界というのは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の六つであります。

・地獄(じごく)
延々と苦しみが続くのが地獄の世界。この六道の中でも最も最下層の世界であります。

・餓鬼(がき)
むさぼり、欲ばかりの餓鬼の世界。常に飢え続けて、欲望を満たすことができない世界であります。
先ほど施餓鬼の意味をお話しましたが、そこの世界がこの六道の中の餓鬼の世界であります。

・畜生(ちくしょう)
畜生という言葉は、もともとは獣や鳥などの動物を指す言葉です。常に食うか食われるという恐怖のなかで、理性は働かず本能のままに生きるのが畜生の世界です。

・修羅(しゅら)
常に他者をへつらい、あざむき、怒り憎しみが消えることなく、争い、戦争ばかりを続けるのが修羅の世界です。

・人間(にんげん)
人間界は、この私たちがいる娑婆世界のことであります。煩悩にまみれ、争いごと、苦しみ悲しみ、病気や老い、最後には死が待つ世界であります。

・天(てん)
天界というのは文字だけ見ますといい世界のように思われますが、快楽だけを追い求め、やはり煩悩からは離れておりません。寿命が尽きれば六道のいずれかに落ちなければならないという苦しみつきまといます。

私たちは、無限の過去から現在にいたるまで、この六道の世界をあちこちへ、生まれたり死んだりを延々と続けている存在であると説かれています。
怖ろしいことに、仏法に帰依して救いを得られない限り、これからも延々とこの六道への生まれ変わりを続けていかなくてはならない存在なのです。

私たちがいる人間界ですけれども、地獄、餓鬼の世界に比べれば、まだ悦びや楽しみもありますので良い世界ではあります。
しかしながら、私たちもこの人間界に生まれる前は、地獄や餓鬼の世界にいたとも言えるのです。
冒頭のお話で、阿難さんの前に出てきた恐ろしい餓鬼の姿は、同じ六道に沈んでもがき続ける私たちの姿に他ならないのであります。

この六道に共通しているのは、土台が苦しみでできているということなんです。

この世が苦しみの世界といいますと、人によっては「そうなのかな~、私は幸せです」という方もいらっしゃるかもしれません。

確かにこの世には喜びや楽しみもありますが、この世の私たちの人生をよ~く考えてみますと、病気や死に別れ、事件事故、争いごと、戦争、災害、などもあります。

今の世の中を見てもよくお分かりになると思います。
たったひとつの疫病、感染症によって、私たちの生活は大混乱となってしまっております。
私たちの日常生活は、一瞬にして失われてしまいました。

世界中の人々が身を削り、我慢をしながらコロナ収束を願い努力しておりますが、この人間界、コロナがなくなれば楽になるとか、幸せになるということもできない世界であります。
結局、コロナがあろうがなかろうが、この世が六道の中にある限り、苦しみがなくなることはないのです。

この人間界は、かりにこの世で一時的に幸せを感じることがあっても、残りの人生ずーっとその気持ちでいることはできない世界なのであります。
何より、最後には死を迎えなければなりません。

このように喜び以上に苦しみ悲しみの多い世界が、私たちのいる人間界、そして六道の世界なのであります。

このように、私たちは苦しみの世界である六道に生まれ変わり死に変わりを延々と繰り返してきた存在であります。

はるか昔から罪を作り続けてきたことによって六道に沈み、その六道の中でさらに罪を作り続けてしまっているのです。
「罪悪生死(ざいあくしょうじ)の凡夫」とも言われていますように、もはや生き死にそのものが罪悪となってしまっているのです。
こうなると、自分の力で苦しみの六道を抜け出すことは到底かないません。
そしてこれからも無限に延々とそれを繰り返していかなくてはならない存在なのであります。

法然上人の仰っている「我が身のほどを信じ」というのは、この私が六道にさまよう凡夫であるということを「はじめに」しっかりと信じなさいということなんです。

そして次に続くお言葉が、「後には仏の願を信ずるなり」です。

仏の願とは、私たち浄土宗の仏さま、阿弥陀さまの本願(ほんがん)のことです。

本願とは、阿弥陀様が仏となる前、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)様というお名前でご修行されていた時に誓われた願い、お誓いのことであります。

法蔵菩薩さまは、先ほどお話してきたような、苦しみの世界にさまよい続ける私たちの存在をしっかりと見つめてくださいました。

法蔵菩薩さまは、六道に生まれ続けるこの私たちを救うためにはどうすればよいのかと深く深く悩まれたのです。

罪をつくり続けることで六道にさまようという原因と結果である「因果のことわり」は法蔵菩薩さまにもどうすることもできません。
六道にさまよい続ける私たちを救うためには、このことわりの上で解決しなければなりません。

法蔵菩薩さまは想像もつかないような長い時間、お考えをめぐらせた末に、

遙か遠く西の彼方に極楽浄土を建立し、自ら仏となり、すべての人を私の国土、極楽浄土へ救い迎えよう。

このように誓われ、四十八の願いを建てられたのであります。
これを四十八の本願、四十八願と申します。

この四十八願の一つ一つには「不取正覚(ふしゅしょうがく)」という言葉が添えられています。
「正覚を取らじ」ということです。
正覚というのは、さとりを得て仏さまになることを意味します。
「正覚を取らじ」というのは、この願いが成し遂げられないのであれば私は決して仏とはならないという堅いお誓いをあらわしている言葉であります。

そして、この四十八の本願の中でも、最も大切な第十八番目の願いがございます。

もし我(わ)れ仏(ほとけ)を得(え)たらんに
十方(じっぽう)の衆生(しゅじょう) 至心(ししん)に信楽(しんぎょう)して
我(わ)が国(くに)に生(しょう)ぜんと欲(ほっ)して 
乃至十念(ないしじゅうねん)せんに 
若(も)し生(しょう)ぜずんば 正覚(しょうがく)を取(と)らじ

このお誓いの内容は、
「もし私が仏となったならば、あらゆる世界にいる全ての者が、私の極楽浄土に往生したいと願い、南無阿弥陀仏のお念仏を称えたならば、全ての者を必ず極楽浄土へ往生させよう。
もし一人でも往生できない者がいたならば、私は決して仏とはならない。」

このように誓われた願いであります。

南無阿弥陀仏の意味をお話いたします。
南無というのは「どうかお助け下さい」という意味です。つまり南無阿弥陀仏とは、阿弥陀様どうかお助け下さい、という意味が込められているのであります。

法蔵菩薩様は、このような堅いお誓いのもと、この私たちを救うために、さらにとてつもなく長く、そして厳しいご修行を勤めてくださいました。

はるか昔から六道にさまよい続けてきた私たちの罪を帳消しにし、さらに極楽浄土へ救うために、法蔵菩薩様自らが身を削って功徳を積むという方法をお取りになられたのです。

そのための法蔵菩薩さまのご修行は、私たちの想像を超えるようなとんでもないものでありました。
修行といいますと、何か苦痛をともなう厳しい行のイメージがあるかと思いますけれども、

法蔵菩薩さまのご修行は、それこそ、眼や耳や鼻を欲しがる者には、ご自身の眼や耳や鼻を山ほども切り取って施し分け与え、血を欲する者にはご自身の血を海の水ほども分け与えられ、空腹の者にはご自身の肉体を食べさせ、その量は山が無限に連なるほどの量になったといいます。
しかも、このようなご修行を無限ともいえる時間ほどもお勤めくださったのであります。

法蔵菩薩さまは、なぜそこまでしてくださったのでしょうか。

広大無辺な大慈悲の御心で、六道に沈みもがき続ける私たちの姿をしっかりと見つめてくださり、何とかして、何が何でも、何をしてでも救いたいと心の底から願ってくださったからであります。

法蔵菩薩さまは、そのようにしてついに全ての願を成し遂げられ、阿弥陀様となってくださったのであります。

ご本尊様をご覧ください。

極楽浄土から私たちのお念仏の声にお耳を傾けられ、いつでもすぐに迎えに行けるようにと、お待ちになられているお姿であります。
大変尊く有難い阿弥陀様のお姿であります。

先ほどのようなご修行を勤めてまで、私たちを「救わずにはおけぬ」と願ってくださった阿弥陀さまの大慈悲のみ心を、私たちは果たして受け取っているといえるでしょうか。

この阿弥陀様のご恩に報いる行いこそが、私たちが「阿弥陀様どうぞお救いください」という気持ちで称える南無阿弥陀仏のお念仏なのであります。

阿弥陀様は、今この瞬間も極楽浄土におられます。そして私たちのお念仏の声をお聞きくださり、私たちがこの世の命終える時には必ず、阿弥陀様が自らお迎えに来て下さり、極楽浄土へ往生させていただけるのです。

阿弥陀さまがお建てくださった極楽浄土は、六道とは真逆の世界であります。
お経典には、「諸々の苦しみは存在せず、楽のみが存在する。だから極楽という。」
このように説かれています。

極楽浄土に往生した人は煩悩が滅せられていますので、怒り憎しみがありません。
従って戦争などの争い事も存在しません。

欲望がありませんから、お腹が減って食べ物を欲しがることもありません。

病気になることはありません。老いることもありません。死ぬこともありません。寿命は永遠であります。愛する人との悲しい別れもありません。

極楽浄土の景色は言葉で表現できないほどに清らかで美しく、暑さ寒さを感じることもありません。
地震や台風などの災害もありません。

疫病や感染症などというものは、あろうはずがありません。
この世の苦しみが全く存在しないのです。

最高最適な環境の中で、仏道修行に励むことのできる世界が、阿弥陀さまがお建てくださった極楽浄土なのであります。

阿弥陀さまがご本願でお誓いくださったように、
私たちが、南無阿弥陀仏のお念仏をお称えすれば、この世の命終える時には必ず、阿弥陀様御自らお迎えに来て下さり、六道にさまようこの私たちを間違いなく極楽浄土に往生させてくださるのであります。

始めには我が身のほどを信じ
後には仏の願を信ずるなり

この法然上人のお言葉は、六道にさまよう凡夫の私であることを深く自覚した上で、そして、このような私でも必ず極楽浄土へと救っていただける阿弥陀様の本願のお力を深く深く信じて、お念仏をお称えすることが大切なんですよ。
という法然上人の尊いお示しなのであります。


はじめに我が身のほどを信じるということは、極楽浄土へ参らせていただくために、自分のありようをしっかり見極めるということであります。

例えば、大きいテーマパークとかショッピングモールなどでは、いろんなところに「園内地図」というのがありますよね。

これ皆さん見るとき最初に何を見ますか?

まずは自分が今いる場所、「現在地」を見ますよね。

ここに行きたいなという時に、まずはしっかり今の自分の場所を確認してから目的の場所にいくルートを考えると思うんです。

同じように、阿弥陀様の極樂浄土へ往生させていただくにあたっては、まずはしっかり自分自身のありよう、私とはそもそもどのような存在なのだろうかということをしっかり見極めておくことが大事なことであります。

もし、自分が凡夫であるということをよく自覚しないままに、阿弥陀様の本願を信じようとしても、本願を疑ったりしてしまうかもしれません。

もしかしたらほかにもっといい修行があるんじゃなかろうかとかですね。
これでは疑いの心でお念仏申すことになってしまいます。

「我が身のほどを信じる」という営みをしっかり行い、自身が凡夫であるということをしっかり信じることで、
このような凡夫の私は、阿弥陀様のご本願に頼るほかはないんだということを疑いなく信じてお念仏申すことができるのです。


それまでの仏教による、厳しい修行や戒律や学問をどれほどきわめたとしても、この私は六道のさまよいから抜け出すことなどかなわない。

誰よりも学問や戒律を究めながらも、そういう現実の自分の存在を、誰よりも見抜いてしまったのが法然上人でした。

法然上人は、そういう現実の自分が救われる教えを様々な人に尋ね歩きましたが、誰一人として、相応しい教え、「間違いなく救われる!」と確信できるような教えを示してくださる方はいませんでした。

法然上人は、嘆いて嘆いて嘆きながら、経典が収められている蔵に一人こもり、悲しみながら、経典に向き合って、一つ一つ自らの手でひもといていかれたのです。

自分が愚かな存在、凡夫であるということを自覚したものの、その自分が救われる肝心の教え、信ずべき法が見えないという状況になってしまったのですね。

「我が身のほどを信じ」ただけの状態というのは、どのような心境なのでしょうか。

自分が六道のうちに延々と死に変わり、生まれ変わりを繰り返す存在だということが分かっただけで、そこからの救いが存在していない状態なわけですから、これはとてつもなく大変なことであります。

まして、自分が愚かな凡夫であるということを、誰よりも強く自覚されてしまった法然上人ですから、この時の法然上人の心の痛みと苦しさ、絶望感は想像することもできないことであります。

膨大なお経の中には、様々な仏さまの国が説かれています。しかしながらどれも一長一短、心から安心して救われる世界はありません。

それだけではありません。仏さまの世界に救われるためには、どれもこれも、厳しい修行や戒律や学問を説くばかりであります。
仏さまの世界があったとしても、肝心のそこに救われる方法がありません。

このまま私は、六道の苦しみの中を永遠にさまよい続けるのだろうか。
苦悩の中で、無我夢中で経典をひもとかれる法然上人のお姿が浮かぶ思いであります。

法然上人のこの救いの見えない状態は20年以上も続いたのです。

そして、法然上人43歳のとき、ついに阿弥陀様のご本願に出会われたのであります。

ようやく「仏の願を信ずるなり」であります。

それまでのあらゆる教えに、救いを見出せなかった法然上人が見出された唯一の救われる道こそ、阿弥陀様のご本願でした。

阿弥陀さまの「我が名を称えたものを必ず救う」というご本願を信じ、極楽浄土への往生を願って「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」と、お念仏申していく道だったのであります。

法然上人の伝記には、その場面が非常に感動的に描かれています。

「阿弥陀さまは、六道のうちにさまよい続ける私を救うために、極楽浄土をご用意くださり、さらには、そこに私たちを生まれさせてくださるために、本願のお念仏をお建てくださっていたのだー!」

喜びのあまり、そばに誰も聞く人はいなかったのですが、声高らかにお念仏をお称えし、悦びが全身を貫き、流れ落ちる涙がいつまでもとまることがなかったそうであります。

このように、はじめには自らの愚かさを強く信じ、長い求道の中で、その自らが救われるたった一つの道、阿弥陀様の本願に出会われ、お念仏申していく道を見出された法然上人のご生涯からもにじみ出ている有難いお言葉が、

始めには我が身のほどを信じ
後には仏の願を信ずるなり
というお示しなのであります。

このお示しを私たちもしっかりと受け取らせていただき、このような愚かな私をこそ間違いなく救っていただける阿弥陀様のご本願を信じ、極楽往生を願いながらお念仏の日暮らしを送らせて頂きましょう。

それでは、ご一緒にお十念をお称えください。
同称十念