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来迎寺だより

浄土宗のお説教

だからこそお念仏

最近のテレビや新聞などで賑わせる話題、実にいろいろなものがあります。
連日繰り返されうんざりしている方も多いのではないでしょうか。

しかし、よく考えてみると、このようなことは今に始まった事ではないようです。
現代に限らず、どんな時代でも今と同じような社会状況があったことを思い返します。

いつの時代でも人間の本質は変わらないということを痛感します。

法然上人以前の仏教は、修行によって煩悩を断って、この世での悟り、成仏を目指すものでした。
しかし、今も昔も人間の本質が変わらない世の中で、いったいどれほどの人が悟りを開けたのでしょうか。

法然上人は、私たち人間の欲や貪り、怒りや腹立ち、物事に対し理性を失い迷い苦しむといった煩悩は自分の力では絶対に取り除く事はできないことをお示しになられました。
そして、私たちはおろかな「凡夫(ぼんぶ)」であるとお示しになられました。

法然上人は、人間の本質を直視されたのです。

煩悩がある限り、私たちは命終わったその後に成仏する事はおろか、貪り続ける餓鬼道の世界や、理性の無い畜生道の世界、苦しみの限りない地獄道の世界に生まれ変わるしかない存在です。

今いる人間の世も、こうした六道の一つの世界であり、煩悩にまみれた苦しみの世界です。

いまも昔も変わることはありません。

いくら学問を積もうとも、それまでの戒をたもって智慧をきわめる仏教の教えでは、到底この私は救われない。
そういう現実の自分というものに気づいてしまった法然上人は、そんな自分が救われる教えを様々な人に尋ね歩きましたが、自分に相応しい教え、「この私が間違いなく救われる!」と確信できるような教えを示してくださる方は、誰一人としていませんでした。

法然上人は、嘆いて嘆いて嘆きながら、経典が収められた御堂にこもりひたすら経典に向き合いて、一つ一つ自らの手でひもといていかれました。自らの愚かさを自覚したものの、愚かな自分がここから救われる肝心の法、信ずべき法に出会えない状況です。

自らの愚かさだけが湧き起こり、救いの道が見えない法然上人の心の痛み、苦しさは想像することもできません。法然上人のこの状況は20年以上も続くのです。

しかし、法然上人43歳の時、中国の高祖善導大師様の『観経の疏』という書物の中にお示し下されていた阿弥陀様の御本願、お念仏の御教えに出会うことができたのです。

自分が唯一救われる道、それこそが阿弥陀様のご本願でした。
阿弥陀様の「我が名を称えたものを必ず救う」というご本願を信じ、「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」と、ひたすらにお念仏申していく道だったのです。

法然上人は、「私のような愚かなもののためにこそ、私にもできる行を、遥か昔に阿弥陀様はご用意していてくださっておられたのか」と、悦びのあまり声高らかにお念仏をお申し、悦びが全身を貫き、流れ落ちる涙がいつまでも止まることがなかったと御伝記に記されています。

いまの時代、自身が愚かな存在であると言うことを自覚することは難しいことかもしれません。
しかし、自分自身を省みると、犯罪を犯すようなことはないとしても、日々の生活の中で様々なことで自身の至らなさを反省する事は多いものです。
このような私にこそ、常に阿弥陀様は優しく手をさしのべてくださっているのです。

阿弥陀様のご本願を信じてお念仏をお称えすると、より一層自身の愚かさに気づかせていただけるようになり、極楽浄土への往生を願わずにはいられません。

お念仏をお称えすれば、必ず阿弥陀様が極楽浄土よりお迎えに来て下さり、この迷い苦しみの世から私たちを必ず救い取って頂けるのであります。
阿弥陀様のご本願は、いつの時代も、いまも昔もそしてこれからも変わることはありません。

阿弥陀様のご本願を信じてお念仏申してまいりましょう。
南無阿弥陀仏