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平安時代後期、永承年中(1046~1052)源頼義に従い陸奥国遠征に軍功のあった千葉氏の初代とされる東荘大友城(東庄町政所台)の城主、上総介常将(1009~1076)が荘内平山(東庄町平山)に一寺を開創して祈願所としたのが来迎寺の前身であるという伝承あり。但し、常将はこれより12年前の承保3年(1076)6月、64歳で病没していることから、不明な点がある。
鎌倉時代初期、千葉氏五代下総介常胤(1118~1201)の六男東六郎太夫胤頼(生没年不詳)東荘三十三郷を領し、自ら大檀那となり、常将が開いた平山の祈願所を貝塚村の聖地釈迦堂に移転し、のちの名僧明恵高弁上人となる成弁和尚(1176~1232)を招いて開祖とし、東氏の祖廟とする。
この年、源頼朝(1147~1199)、鹿島社参のみぎり、同寺に憩い、御堂の壮麗さを賞して大御堂と称したことから、これ以後は大御堂と呼ぶにいたったとの口伝あり。
橘、木内両荘の領家正二位権大納言四条(藤原)隆房(1148~1209)、阿弥陀如来を同寺に寄進し安置する。これが同寺の阿弥陀如来と伝えられるが現存仏は後世の作である。
鎌倉時代の名僧明恵高弁上人、京都栂尾高山寺(京都市右京区)において遷化。60歳。
親誉上人、源氏将軍三公の供養塔(五輪塔)を造立して供養する。
三公は鎌倉幕府初代将軍源頼朝【正始元年(1199)1月13日没、53歳】
二代将軍源頼家【元久元年(1204)7月28日没、23歳】
三代将軍源実朝【健保7年(1219)1月27日没、27歳】
造立の事由は、明恵上人が頼朝から拝受した狩衣を袈裟に仕立て直したものが什宝として来迎寺に伝えられていたため、これを埋納し、その上に供養塔を造立して供養したものと伝える。
三河の旗本、松平外記伊昌が徳川家から銚子飯沼に二千石を拝領。飯沼陣屋が完成するまで来迎寺を仮陣屋とする。伊昌の正室、おふうの方は81歳で飯沼陣屋にて死去し、浄土宗に帰依していたため来迎寺に葬られた。
来迎寺僧良暁、父、府馬左衛門尉時持及び、叔父、神野角助の供養塔(宝篋印塔)2基を造立して両者の菩提をとむらう。
良暁は幼名を勝若と称し、布万郷(山田町府馬)の領主、府馬時持の嫡男として出生する。戦国末期の永禄(1558~1569)、天正初期(1573~)頃、房総の戦国大名里見氏の重臣正木大膳時綱(1507~1581)と戦い敗れて後、正木氏に属し、一族の小見川城主粟飯原氏、松子城主の大須賀氏と合戦し、香取原において戦い利あらず憤死したという。
そのため、幼かった勝若は母おこうの方の出生の地、貝塚村来迎寺の法弟となり得度して良暁と号し、長ずるとこれら親族の菩提をとむらう。現存の大宝篋印塔2基はその供養塔である。
神野角助は貝塚村に居住する郷士で、法号を月山釈心居士と号し、時持の妻おこうは角助の妹といわれている。時持の長女(良暁の妹)は徳川の旗本石河光政(~1589)の二男土佐守勝政(1576~1659)の室になっている。この勝政は元服すると、文禄元年(1592)、同輩の波田筑後守某を殺害し、京都から逃れ、徳川家康の計らいによって下総国助崎村(下総町名古屋)に潜居し、同3年(1594)、家康に仕えて旗本となり、助崎村を含めた香取郡内において二千七百石の領主となった人物であり、この供養塔造立にあたっては同人からの援助もあったのであろう。
徳川家二代将軍、徳川秀忠(1576~1632)は、来迎寺に対して寺領十六石七斗六升四合を寄進する。これは大久保石見守長安(1550~1613)の書状によって明らかとされるが、現存不明。
梵鐘鋳造。径2尺6寸2分、高さ5尺9寸6分。重量64貫匁。
現本堂建立。保存の棟石(仮称)に紀年銘あり。
建立。腐朽のため昭和61年解体。
庫裡建立。
鐘楼堂建立。
大御堂消失。
門前出火により大御堂四脚門消失。
梵鐘復興。富山県高岡市金森与四治氏 施工。
境内六地蔵修復工事。
歴代住職墓整備工事。
客殿新築。落慶式。
境内墓地水道設置。
本堂内陣修復工事。
参道石段、排水工事。
震災復旧工事(本堂内壁等)。
墓地六道区域改良工事。
稲荷社参拝道整備。
境内電線埋設工事。
おふうの方墓所修繕。
鐘楼堂修繕。
本堂屋根大改修 落慶
本堂天井大改修 完成