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元文元年(1736年)、当山第18世願蓮社先譽満察上人代の建立。保存の棟石に年号が刻まれています。寄棟造りで十間四方の作りです。
「来迎寺雑話」によると、旧和泉村生まれの棟梁、権右衛門【延享元年(1744年)没】が施工の中心人物と伝えられています。
嘉永2年(1849年)の建立。高床、袴腰化粧の入母屋造りです。
徳川家康の重臣、酒井忠次の長女として弘治3年(1557年)頃三河国に生誕。母親は徳川家康の叔母、碓井姫とされています。
少女期の頃に駿府城の今川氏真のもとで人質として過ごしました。後に徳川家康の養女となります。
天正10年(1582年)頃、おふうの方は三河国徳川家譜代の臣である松平外記伊昌公と結婚します。天正18年(1590年)、伊昌公は徳川家より軍功により銚子飯沼二千石を拝領し、飯沼陣屋の構築までの2年間、来迎寺を仮館としておふうは若い日々を過ごしました。
おふうの方は、寛永15年(1638年)11月25日、飯沼陣屋にて逝去します。行年81歳。法名は清心院殿圓譽理月大信女。
「もと浄家の出なれば、亡後は浄土宗の寺に埋むべし」の遺言により来迎寺に遺髪を葬り石碑を建立されたようです。他碑は、庶子松平昌長と松平某とその妻の墓です。当寺には、同女にまつわる松平・酒井両氏寄進の仏画が所蔵されています。
徳川家康公の御位牌です。
当寺に居住していた徳川家康公の養女おふうの方(上記)が所有していたものと思われます。
おふうの方が養父家康公の菩提のために造立し、供養していたことが窺われ、おふうの家康公への思いが偲ばれます。
徳川家康公の法名「安國院殿一品徳蓮社崇譽道和大居士」が確認できます。
建久9年(1198年)、源頼朝公が鹿島社参拝の折、来迎寺に憩したと伝えています。伝承では、明恵高弁上人は村境まで見送り、ここで道中の無事を祈念し御十念を授けられたといいます(後にこの地の小字を重念という)。この時頼朝公より御狩衣を上人に賜り、上人はこれを袈裟に仕立てて着用されたそうです。その後、来迎寺1世親誉上人はこの因縁をふまえて境内清浄の地を選んでこれを埋納し、源氏将軍三公(頼朝・頼家・実朝)の供養塔を建立されたといいます。時に永正10年(1513年)といいます。
嘉元4年(1306年)在銘で、篠崎四郎氏や村田和義氏らによって広く知られた図像板碑です。損傷が進んでいますが、何とか形像は判明できます。早来迎(はやらいこう)の弥陀三尊図で、三尊とも頭光を現し、中尊は蓮台に乗り他は蓮座上に表現されます。中尊の蓮台は本格的な框座(かまちざ)です。中尊はさらに1光2条の放射光を放ち、内1光は長く下方に伸びて極楽往生を目指す新没者のもとへ届く表現となっています。観音菩薩は腰を屈め蓮台を差し出し、勢至菩薩は立像で合掌形に見えます。銘文は尊像下に5行で刻まれ、施主により霊位の極楽往生を祈願する内容が窺えます。地上高104cm、石材は黒雲母片岩です。
来迎寺墓所入口の東側にあり、高さは244cmで、全体は6石で構成されています。府馬時持の子・勝若が、父の供養のために造立したと伝えられています。基礎には銘文がありますが、磨滅しているため判読できる文字は僅かです。
府馬時持については、正確な資料が残っていないためどのような人物なのかはよく分かっていません。伝えによると、府馬城を築いた国分弥五郎胤時の裔孫で(府馬城の築城は府馬時常との説もある)、神野角助(次項)の妹、おこうを妻とし、永禄8年(1565年)に里見氏の将・正木時忠とともに米野井城主・木内氏と戦って討死しました。時持の嫡子・勝若は僧となったために府馬氏は衰えたと言われています。
また、勝若は来迎寺10世の源蓮社暁譽春随上人(良暁、寛文4年(1651年)寂)と考えられます。
来迎寺墓所入口の西側にあり、高さは249cmで、全体は4石で構成されています。基礎の銘文には、月山禅心居士という戒名と慶長7年(1602年)3月に建てられたことが記されており、府馬時持の子・勝若が伯父・神野角助の供養のために建てたと伝えられています。
神野角助(神角助・新野角助)は貝塚の住人で、地元の伝承では海上氏の一族とされています。天正18年(1590年)、豊臣秀吉軍の大将浅野長吉(長政)・木村常陸介が江戸崎城の攻撃後は浅野長吉(長政)・木村常陸介と香取神宮の間に立って、香取神宮の所領内での軍勢の乱暴を禁止する制札を獲得するなどしました。
また、歌道に通じ、天正20年(1592年)9月9日に領主・松平家忠に書状と水鳥10羽と柿1枝を送り、家忠と親交を持つようになります。松平家忠は歌道に造詣が深く、10月24日、角助は松平家忠に「一折歌興行候」という書状を送り、10月28日に家忠みずから角助の住まいを訪れて連歌の会を行っています。これ以降、松平家忠の連歌友達となり、家忠日記にたびたび登場しています。
来迎寺墓所の個人墓地内にあり、高さは132.3cmで、全体は4石で構成され、庚申信仰によって建てられたものです。貝塚村の善女10余人が二世安楽のために3年一座の「守庚申」を執り行い、その成就にあたって天正4年(1576年)に建てられたことが記されています。
守庚申は庚申信仰(後述)の古い呼び方で、宝篋印塔による庚申塔は、本例を含めて全国で6例が確認されているのみです。天正4年(1576年)在銘の本例は、3番目の古さとなります。また、女性による庚申信仰であることも注目されます。
※庚申信仰とは、もとは道教の守庚申より出た庚申(かのえさる)の年または禁忌行事を伴う信仰。庚申の夜には、人の体内にいる三尸虫(さんしちゅう)が、体内を抜け出して天帝に罪科を告げると信じられ、これを防ぐために道士たちは不眠の行を行った。これが守庚申で、日本の民間信仰では庚申待、庚申講として伝えられている。また庚申の夜には男女同床、婚姻を避けるならわしがあるが、これは庚申のたたりを恐れたためのものである。(参考『ブリタニカ』)
この念仏塔は、阿弥陀如来の丸彫り像下の基壇に、なんと一万日に及ぶ念仏廻向の修されたことが刻まれていて話題となったものです。常念仏(じょうねんぶつ)一千日を修した千日念仏塔や千日廻向塔は目にすることができますが、一万日念仏塔は千葉県内では初出とされます(茨城県や埼玉県には若干の事例があるようです)。
銘文には、「享保八年 三月十五日 當寺十八世先譽上人満察和尚」とあり、享保8年(1723年)に結願成就したことが判ります。一万日とは実に28年間にも及び、逆算すると発願は元禄8年(1695年)になります。この時の住持は第16世弁蓮社成譽単秀上人です。ただし、上人はこの翌年に遷化されていますので、実質的な発願は次代の第17世善蓮社積譽愚祐上人であったかもしれません。
それにしても、この壮大な一万日念仏廻向の発願は、近隣諸村の信徒による強力な支援と深い信仰によって実現されたことが窺えます。
奈良時代後期、第四十五代聖武天皇御代、下総国一円の大干ばつにより困窮者が続出し、各地において雨乞い行事が盛んに行われました。当地域でも、来迎寺開創前の原生林だった当地の大楠を伐って六体の聖観世音菩薩像を刻し、これを貝塚、五郷内、川頭、下飯田、羽計、石出の六ケ村に分置して祈祷したことから、これを東総六観音と呼びました。中でも、来迎寺の観音像は大楠の根元で造像されたことから、これを元木観音、雨乞観音と称し、地域で深く信仰されてきました。当山に安置する多くの御仏の中でも、屈指の霊力を誇ると伝えています。
本堂庫裡の前にそびえ立つ榧の老木です。古来より、同じ貝塚地区にある豊玉姫神社での祭礼の際に、ご神馬をつないでおく木とされてきました。また、初秋に落ちる種子は食用となり、飢饉や戦時下の食糧難の時代には貴重な食糧であったといいます。榧の実から搾った油は、古くより貴重な高級油として珍重されてきました。当山の院号、「宝樹院」はこの木のあることから名づけられたと伝えています。
お寺にお稲荷さんというのも不思議に思われるようです。伝えるところによると、現本堂再建の頃、衣を着た童子が日中に現れ、日暮れに立ち去ることが続いたといいます。村の老人が「君何人ぞ」と問うに、童子が答えるには「我、当寺鎮守の稲荷明神なり。本堂修造の功によって守護す。永く万代に至るまで、なお守護を加えんとす。信ずる者は、百世、火災等の厄難なからん」と答えたといいます。
これによって、本堂裏手の高台に稲荷社を建立し、毎年3月18日に祭礼を行い、近年まで稲荷講として続いてきました。様々な伝承に富むお社です。
江戸時代のものと考えられます。当時の住職や地域の地主等の移動に使われていたもののようです。
また、天正年間の一時期、松平家の陣屋が当山に置かれていたことの名残りとも言われています。
千葉県匝瑳市松山にある松山庭園美術館の此木三紅大(コノキ ミクオ)先生の作品「龍の図」です。縦約2m、横約5mの大きさです。不思議な縁で当山に寄贈くださいました。