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浄土宗について

浄土宗について

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宗祖法然上人

宗 祖法然上人(1133~1212年)
開 宗1175年(承安5年)
高 祖善導大師
本 尊阿弥陀如来
教 え阿弥陀仏の平等のお慈悲を信じ、南無阿弥陀仏と名号をとなえれば誰でも極楽浄土に往生することができるという教えの宗派です。
お 経お釈迦さまがお説きになった『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の浄土三部経をよりどころとします。
宗 歌月かげの いたらぬさとは なけれども ながむる人の 心にぞすむ
総本山知恩院

法然上人のご生涯

法然上人(幼名は勢至丸)は長承2年(1133)、現在の岡山県に武士の子として生まれました。9歳の時、戦で父を失います。「仇をとれば、またお前が狙われ、その繰り返しに終わりは無い」という父の遺言に従い、僧であった叔父・観覚(かんがく)のもとに弟子入りし、学び始めます。そして15歳で当時の最高学府であった比叡山に上り出家、法然房源空(ほうねんぼうげんくう)と名を改め「智慧第一の法然房」と言われるまでになりました。

しかし、当時の仏教は、鎮護国家や貴族など富裕層中心のもので、その教えは多くの庶民には届いていませんでした。
上人は「どうしたら、学問の機会もなく、戒律を守ることもできずに日々の暮らしに追われ、来世に不安をもつ人々を救うことができるだろうか」と、膨大な経典を何度も読み返しました。

そして、「ただひたすら、心から南無阿弥陀仏ととなえて阿弥陀仏におすがりすれば、誰彼の区別なく救い取っていただき、極楽浄土に往生できる」というお念仏の教えに出会われたのです。
どんなに修行しても、また学問を積んでも、知るのは自分の愚かさ、至らなさであるという上人の内省に内省を重ねた人間観がこめられています。
承安5年(1175)春、上人43歳のことでした。浄土宗ではこの時をもって開宗としています。これは当時の仏教の革命でもありました。

上人のお念仏の教えは、仏教界のみならず、社会的にも大きな旋風を巻き起こし、それまで寄る辺のなかった一般の民衆へと大変な勢いで広まっていきました。

その一方で、上人の教えを間違って理解して教えを広める弟子たちも現れ、革新的な教えは従来の仏教界からの批判も受けます。これらのことから、75歳の時に朝廷から流罪をうけましたが後に赦免となり、最後は都へ戻り大勢の弟子たちに見守られ、建暦2年(1212)1月25日、享年80歳で安らかに極楽浄土へ往生されました。

仏教伝来と浄土宗

仏教は二千五百余年の昔、インドのお釈迦さまが説かれた教えです。釈迦族の国王の太子として生まれたシッダルタ(後の釈尊)は苦しみ(生・老・病・死)をのり越えるための悟りを得ました。そして仏陀(ブッダ)となられました。この仏陀を「仏」といいます。

仏教は「仏陀の教え」であると同時に、私たちが「仏になる教え」でもあります。仏になるということは、「悟れる者」「目覚めたる人」「一切の束縛から解放された人」になるということができます。人が人以上の尊い存在となったとき仏となるのです。

お釈迦さまは生涯、仏の教えを説かれ、人々の救済に当たられました。その広い深い教えを、「八万四千の法門」と呼んでいます。これがお経として中国に伝わり、やがて日本へ伝来しました。

法然上人は、厳しい修行も、難しい学問も戒律もままならない私ども凡夫を救うために、お釈迦さまの膨大なみ教えの中から見出された阿弥陀仏の本願によって極楽浄土に往生し、そこで仏になるという教えを説かれました。これが浄土宗です。

阿弥陀仏の本願には、どんな愚かな罪深い人であろうとも「念仏する者は必ず浄土に救い取る」とお誓いくださっています。

浄土宗の要 阿弥陀仏の念仏往生の願

私たちは、生まれ、老い、病み、そして死んでいきます。逃れられない根本的な苦しみです。
そして、苦しみのはてに私たちがいずれ生命を終えるとき、来世はさらに苦しみや悲しみに満ちた世界が待っているというのでしょうか?

阿弥陀仏の前身であった法蔵菩薩は、こういった悩める人々を救おうと誓い、四十八の願をたて、すべてを成しとげました。
中でも第十八番目の願が示しています。

「もし私が仏となったら、真実の心を持って、深い信心をおこし、浄土に生まれようと願い、南無阿弥陀仏と私の名前を呼ぶ者をわが西方極楽浄土へ生まれさせよう。それができなければ、私はさとりを得た仏とはならない。」

法蔵菩薩は、現実に阿弥陀仏となられました。この浄土へ行って生まれることを往生(おうじょう)と言います。
第十八願は中心となる願で「念仏往生の願」とよばれます。
「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と口に称える行いが、往生のための最も大切なことです。

宗祖法然上人は、このお念仏こそが私たちを苦しみから救う唯一の行であると私たちに説いてくださいました。

法然上人は、
「いければ念仏の功つもり、死なば浄土にまいりなん。とてもかくても、この身には、思いわずろう事ぞなきと思いぬれば、死生ともにわずらいなし。」
(生きているときは、念仏を称えることができて功徳がつもり、死ねば極楽浄土に参ることができるのです。いずれにしても、この身にはあれこれ思い悩むことなどないのだと思えば、生きることも死ぬことも、思い悩むことはありません。)

と常日頃おっしゃっていました。
念仏生活をしていれば、仏まかせの気持ちが自然とわきおこり、生きる死ぬの悩みは消え去ることでしょう。

それこそが、永遠のいのちをいただいたことです。阿弥陀仏は「無量寿仏(むりょうじゅぶつ)」ともいい、無量のいのちをもった仏さまなのです。

念仏は、まず実践することが大事なことと法然上人はおっしゃっておられます。
そして阿弥陀仏の恩恵を受ける幸せを感じつつ、「おかげさまで」と日々感謝の生活をお送りください。