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来迎寺だより

浄土宗のお説教

阿弥陀仏は不取正覚の言を成就して、現に彼の国にましませば、定んで命終の時は来迎したまわん。

如来大慈悲哀愍護念 同称十念

無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇
我今見聞得受持 願解如来真実義

謹み敬って拝読し奉る
元祖大師法然上人 御法語にのたまわく
阿弥陀仏は不取正覚の言を成就して、現に彼の国にましませば、定んで命終の時は来迎したまわん。
十念

皆様こんにちは。

この度は当山へお参り頂きまして大変有り難い事でございます。

私は当山来迎寺の住職を勤めさせていただいております笠島崇信と申します。
しばらくの間ではございますがお念仏のみ教えについてお話をさせて頂きます。
どうぞお楽な姿勢にてお聞きいただけましたら幸いでございます。

当山は、来迎寺(らいこうじ)と申しますが、なかなか一般の方には読めないようでございます。
電話がかかってまいりますと、一番よく言われるのが、「ライゲイジさんですか?」というものでございます。普通に読んだらそうなりますよね。
または、「ライゴウジさんですか?」と言われる場合もあります。この場合は、「おしい!」と思うわけですけれども、確かに「来迎」を「らいごう」とお読みするお宗旨もございます。
でも、私たちの浄土宗ではこれを「らいこう」とお読みいたします。

この、「来迎」という言葉。浄土宗ではとても大事な、有り難いお言葉なのでございます。

「来迎」と申しますのは、阿弥陀さまが極楽浄土よりお迎えに来てくださることであります。私達のこの世の命が終わる時にお迎えをいただき、極楽浄土へ導いてくださるお救いのことを言い表したお言葉なのでございます。

そして、冒頭に拝読いたしました法然上人のお言葉にも、この「来迎」の言葉がございます。
今一度拝読いたします。

阿弥陀仏は不取正覚の言を成就して、現に彼の国にましませば、定んで命終の時は来迎したまわん。

この意味をお話いたします。

阿弥陀さまははるか昔、仏となられる前、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)というお名前でご修行をされていました。この時、この世で苦しむ私たちを救うために四十八の誓いをお建てになられました。

その第18番目の願いは、このような願いであります。

「もし私が仏となったならば、あらゆる世界の者が、心から我が極楽浄土に往生したいと願い、念仏を称え、一人でも往生することができないのであれば、私は仏とはなりません。」

このように固くお誓いになられました。

念仏とは「南無阿弥陀仏」と阿弥陀さまのお名前を声に出してお称えすることでございます。南無阿弥陀仏とはどのような意味かと申しますと、「阿弥陀さま、どうぞお救いください。」ということでございます。

そして、18番目の願いを受けて19番目の願いには、

「臨終のときには必ず、諸の仏や菩薩と共に目の前に現われましょう。そうでなければ、私は仏にはなりません。」

と誓われております。

阿弥陀さまはこれらの48のお誓いのすべてを成し遂げられました。そして、今まさに仏となって極楽浄土におられるからこそ、お念仏をお称えすれば、この世の命が終わる時には、阿弥陀さま自ら極楽浄土より私たちを必ずお迎えくださるのです。

お迎えに来てくださるのは、「阿弥陀さま」でございます。
ご先祖さまや、亡きおじいちゃんおばあちゃんが迎えに来るのではございませんよ。

この阿弥陀様の来迎でございますが、いつ来てくださるのかといいますと、私たちがこの世の命を終えるとき、「臨終」の時に阿弥陀様がお迎えにきてくださるわけでございます。

身近なたとえで申しますと、試験があります。入学試験でも入社試験でも試験日はあらかじめ決まっております。その日に向かって勉強を続けていき、試験日を迎えて初めて合否の結果が出るわけでございます。
模擬試験やなんかで、もう十分合格点を取れているから前倒しでやりましょうというわけにはいきませんよね。

同じように、阿弥陀さまの来迎も、私たちがこの世の命を終えるときにはじめていただけるものなのです。病院で亡くなるとすれば、お医者様が、「御臨終です。」と言われたまさにその時に阿弥陀様は来迎くださるのです。

ですから、日頃お念仏をお称えしている方が、私はもう十分お称え申し上げましたから、「阿弥陀さま、今から来迎お願いします」といっても、命あるうちは叶わないのです。

ただ、私たちのこの世の命と申しますのは、いつ終わるのかは分からない命でございます。

年を取られて命終える方もいれば、大変若くして亡くなる方もいます。
また、病気で亡くなることもあれば、事故や災害などで突然に命を終えてしまうかもしれないこの世でございます。

この私たちの命は、1年後か10年後か50年後か、はたまた明日か明後日か。いつ命尽きるか全く分からないのです。

ですから、命あるうちはお念仏をお称え続け、いつ命を終えようとも阿弥陀様の来迎をいただくことができるのだと信じて、この世を生きて行くことであります。

私が縁あって当山に住職として入らせていただき、10年が経ちました。
私はもともと長野県の生まれでございますので、千葉県は全く見知らぬ土地でありました。もちろん土地勘もありませんし、周りに知っている方は誰もいません。
法務を勤めるにしても、お葬式など仏事の慣習も長野とは違うものが多く、戸惑ったものでございます。

この時にお寺の総代をされておりました、Mさんという方がいらっしゃいました。

私がお寺に入るにあたって、お檀家様の家を一軒一軒ご挨拶をして周ったのですが、その時にMさんが案内をしてくださいました。

その時に、お昼を食べに連れて行ってくださり、「ここにはこういうお店があるよ。ここのご飯はおいしいよ。」と案内してくださいました。そして、「何か困ったことがあったらいつでも相談してきなさいよ。」と有り難いお言葉をくださいました。

その後、お寺の総代を卒業されたのですが、法事でご自宅にお伺いしたときに、阿弥陀さまのお話しをする機会がありました。

Mさんはお母さまを亡くされたあとで、また、お一人で生活されていましたので、少し寂しそうなご様子でした。
私は、「阿弥陀さまとお母さまをはじめご先祖さまがお見護りくださっています。どうぞ、安心してお念仏をお称えください。」と申し上げました。

しばらくして、私が風邪をひいて病院におりましたところ、Mさんがいらっしゃいました。
Mさんはその時入院をされており、歩行のリハビリをされているところでした。

私を見つけると、驚いた様子で、

「御前(ごぜん)さん!」

当山の地域では、住職のことを御前さんとか御前さまとか呼ぶのですが、「御前さん! どうしたの?」と私のところへ来られました。

少し風邪をこじらせまして、とお答えしますと、「身体に気を付けるんだよ」と温かいお言葉をかけてくださいました。

でも、明らかにご自身の方がご病気をされて、大変な状況にあるはずなのにもかかわらず、ただの風邪引きの私の方を心配してくださったのであります。

病院の待合室でしたので、ゆっくりとお話しはできませんでしたが、一言「念仏してるよ。」とおっしゃって、リハビリに戻られたことを覚えております。

心残りではございますが、Mさんにはこの時にお会いしたのが最後でございました。
Mさんはその後まもなく、71歳で阿弥陀さまの来迎をいただきお浄土に参られました。

今、お浄土から私の姿をご覧になり、
「御前さん! 俺のことをしゃべるんなら、もうちょっと上手く話せるように勉強しなさい。」と叱咤激励くださっていることと思います。

Mさんは、病室で小さい声ながらも力強いお念仏をお称えされていたことと存じます。そして、一生懸命に生きられ、この世の命を終えて、阿弥陀さまの来迎により極楽浄土へと参られたのであります。

この私たちも、いずれこの世の命を終えた暁には極楽浄土へ参らせていただくこの身でございます。お念仏をお称えすれば、阿弥陀さまのお誓いの通り、必ず来迎をいただき、ご先祖さまや先に待つ方のいらっしゃる極楽浄土へと参らせていただくことができるのです。

どうぞ、その時まで日々お念仏をお称えし、この世を力強く生きさせていただきましょう。

それでは、最期にご一緒にお十念をお称えください。
同称十念